最初に
この記事はゲーセンを批判するものではありません。
ゲーセンは子どもにとって最高の遊び場であり、親にとっては経済や心理を学べる教材の宝庫だと思っています。
そんな場所を提供していただける業界の方にはリスペクトを持っています。
ここでは「遊び場をどう切り取れば学びになるか」を探る視点で書いています。
確率機は悪ではないのか?
前回の記事で、確率機は「悪ではなく、多くの人に楽しみを配る必要な仕組み」という立場を考察してみました。以下の記事です
確率機は悪なのか?——ゲーセンに潜む“遊びの再分配”という社会設計
しかしながら、ここでモヤッとした方がいるのも承知しております。
- いやいや、それ搾取を上手く擁護しているだけでしょ
- 不誠実な仕組みを正当化しているだけ
- 「取れるかも」と期待させる構造、倫理的にアウトでは
こうしたご指摘、完全にまっとうです。
今回はこの「透明性の欠如」を、倫理・哲学の観点から掘り下げていこうと思います。
この記事でわかること
- 確率機を公表したら何が起きるか:3つのシナリオと市場消滅の可能性
- カントの定言命法から見た確率機の倫理的問題:動機と手段化の観点
- 功利主義から見た確率機の正当化:最大多数の最大幸福という観点
- トロッコ問題と確率機の構造的類似:多数の喜び VS 少数の喜び
- グレーゾーンが経済を回す理由:情報の非対称性の機能と限界
確率機を公表したら何が起きる?3つのシナリオで検証
最初に頭の体操からはじめてみます。3つのシナリオで想定してみましょう。
シナリオA:確率機を完全公表
「このUFOキャッチャーは5,000円投入でアームが強化されます。現在3,200円です」
これはどうでしょうね。恐らく1,800円で景品を取るという、売買というフレームに頭が切り替わります。「取れるかも」という期待感は完全に消えます。もはや最初から値札をつけて陳列したほうが電気代もかからず店側も効率的かもしれませんね。
つまり、ゲームとしての魅力が壊滅する代わりに、取引としてはクリーンになるわけです。
シナリオB:実力機であることを公表
「このマシンは実力機です。アームの強さは一定です」
これは前回の記事で考察したところです。既存のクレーンゲームの攻略ページを拝見すると、実力機はかなりテクニックが必要のようです。頑張れば取れるケースもあれば、配置によっては「このパターンはまず無理だから諦めろ」のような記事も拝見しました。
このケースで起きそうな流れは、ざっくりこんな感じです。
- YouTubeやXで攻略法が拡散される
- 攻略法を知る人と知らない人、練習できる人できない人で、取れる確率に差が出始める
- 完全に取れるわけではないが、上手な人の方が明らかに有利に
- 店は利益確保のため難易度を少しずつ上げる
- イタチごっこで調整コストが増大
- 攻略法を知らないライト層は「何回やっても取れない」と感じて離脱
- 攻略法を研究する人だけが残る、市場はじわじわと縮小
前回の記事で触れた格闘ゲームの衰退に似た構造です。完全に職人だけの世界になるわけではありませんが、「知っている人」と「知らない人」さらに練習できる人できない人で格差が広がり続けます。
シナリオC:現状維持(グレーゾーン)
「何も公表しない、客は推測する」
これが現在の姿です。この場合、市場は今のまま維持される可能性が高いでしょう。ただし、倫理的な疑問と、不信感の種は残り続けることになります。
クレーンゲームとカジノの共通点:客の成功は店の損失
同じ娯楽でもボウリング、ダーツ、カラオケなどは、場代ビジネスであり、客が上手でも店は一切損はしない。むしろ腕を磨くという目的で長期滞在もあり、売上が上がる構造です。
一方でクレーンゲームは「客の成功=店の損失」というゼロサムゲーム、それぞれの利益が逆相関しています。同じ構造を持つのがカジノですね。カジノがカードカウンティング(カードを記憶して確率計算する技術)を禁止するのと、ゲーセンが実力機の攻略法を嫌うのは全く同じ理由です。
- カードカウンティング → カジノ側が不利に
- クレーンゲームの攻略法 → ゲーセン側が不利に
技術で確実性を高める手法があれば、どちらも経営が成り立たなくなる。だからカジノはカードカウンティングを禁止し、ゲーセンは技術を上げても取れないように配置をシビアにする。
蛇足ですが、「ハングオーバー」という映画で主人公達がカードカウンティングを使ってブラックジャックでぼろ儲けするというシーンがあります。その際カジノ側からマークされる描写があります。それほど運営者側にとってはお客のスキルは重要なファクターなのです。
確率機は不誠実?カントの定言命法で考える倫理問題
動機主義
冒頭で書いた、不誠実という言葉。この感覚をイマヌエル・カントの主張で説明できます。カントはこう主張します。
「ある行動が道徳的かどうかは、その結果ではなく動機で決まる」
何かをする動機に重要性を置いた主張です。哲学的過ぎてわかりにくいですが
「動機が不純なら一発アウト」
という立場です。
確率機を使う動機を考えてみましょう。店側の目的は利益を上げることです。つまり、客に期待感を持たせてお金を使わせることですね。カント的には、これは不純な動機であり、不道徳な行為と断じられます。
人間性の定式
カントの有名な主張に「人間性の定式」と呼ばれるものがあります。
「人を決して単なる手段としてのみ扱わず、常に目的として扱え」
一言でまとめましょう
「人を利用するな。人を尊重しろ」
というものです。これを確率機に当てはめると、こんな整理となります。
- 客が合理的判断をできないようにする
- 情報操作により、客を「利益を生む手段」として扱う
- 客を「それ自体が目的である理性的存在」として尊重していない
これは人を「単なる手段」として扱っており、カントの主張に真っ向から反する、不道徳な行為です。
功利主義から見た確率機:最大多数の最大幸福を実現
ベンサムの量的功利主義
カントと真逆の立場を見ていきましょう。功利主義です。この主張といえばジェレミー・ベンサム。彼の主張はカントと比較するとシンプルです。
「道徳的に正しい行為とは、最大多数の最大幸福を生み出す行為」
噛み砕いて言うと
「皆がハッピーになれるのが一番いい」
という考えです。これを確率機に応用しましょう。
- 確率機がない世界:上手な人だけが喜び(少数の大きな喜び)、大多数は排除される。
- 確率機がある世界:上手な人も子どもも、みんながたまに取れる(多数の小さな喜び)。
つまり多数の幸福を実現するから、功利主義的にはOKとなる。
大事なのは、功利主義はカントのように動機を問わないこと。店側が利益目的でも、結果として多数が幸福なら道徳的に正しいというロジックになります。
ミルの主張:幸福の質をどう測るか
ベンサムの主張を発展させたのが、ジョン・スチュアート・ミル。彼は「幸福の質」という概念を持ち出しました。一言でまとめましょう
「質の高い幸福も低い幸福もある」
この考えを持ち出すと、更に話がややこしくなります。こんな考え方はどうでしょう。
「上手い人が練習して、高い確率で景品を取る。これも1つの幸福ではないか」
そうすると実力機だけの世界も、功利主義的にはOKに見えてきます。しかし、ここで大きな問題が生じます。幸福の質は誰が判断するのでしょうか。
- 職人の技を磨く喜び
- 子どもが偶然1回だけ取れた喜び
どちらの幸福のほうが質が高いのでしょう?
ミルは「両方を経験した人が判断すればいい」と言います。しかし両者を経験した人いますか?そう考えると、どちらの方が幸福の質が高いか、私には結論が出せません。
トロッコ問題と確率機の共通点:多数の喜びvs少数の喜び
ここまでの流れ、実は有名なトロッコ問題とフレームが似ているので対比させてみましょう。
トロッコ問題(基本形): 暴走するトロッコ。このまま進めば5人が死ぬ。線路を切り替えれば1人が死ぬ。あなたは線路を切り替えるべきか?
つまり多数の命と少数の命というジレンマです。
確率機問題: 多くのライト層が景品を取れない中、少数の上手な人だけが取れればよいか?
これは多数の喜びと少数の喜びを対比させていますね。
トロッコ問題が「命の数のジレンマ」だとすると、確率機問題は「楽しさの分配のジレンマ」です。
ややこしいのが、トロッコ問題は5人と1人で数えられますが、確率機問題では「職人の技術を極める喜びの価値」と「子どもが偶然取れた喜びの価値」といった定量化不可能な要素が入ってきます。トロッコ問題に明確な答えがないように、確率機問題にも明確な答えはないと私は思っています。
確率機の設定は適切?搾取と還元の境界線
ここまでの議論には重要な前提があります。それは運営側が適切に還元する意図を持っていることです。つまり
- 確率機の設定が常識的な範囲にある(例:数千円で1個取れる)
- 景品の価値に見合った設定がされている
- 極端に取れないようにはしていない
こういった最低限の倫理観が守られているかということですね。現実には確率をあまりに低く設定する悪質な店などがあるのかもしれません。こうした店は「搾取」と呼ばれても仕方ない。
この記事で擁護しているのは、適切に運営されている場合の確率機です。悪質な運営まで正当化するものではありません。
確率機は善か悪か?カントと功利主義の永遠の対立
カント・ベンサム・ミルの三竦み
カントの主張はプロセスが正しくなければならず、動機が不純であれば結果がどうであれ不道徳とされます。一方ベンサムは、結果が良ければOKであり、多数の幸福を実現していれば道徳的とされ、プロセスは問われません。そこにミルが「幸福には質がある」という視点を加えました。この三者の対立は、現代倫理学でも決着がついていません。
哲学は答えを出しません。考え続けることに意味があるのです。
グレーゾーンの必然性
ここで浮かび上がるのが、二律背反の構造です。
- 倫理的にはカントの主張に従って透明化すべき
- 経済学的には透明化すると市場が崩壊する。
つまり倫理と経済が真っ向から対立するのです。
この対立を解消するために生まれたのが、グレーゾーンという妥協点です。完全に誠実でもなければ、完全に不誠実でもない。この曖昧さこそが市場を支えている現実があります。
経済学用語で「情報の非対称性」という概念があります。運営側だけが情報を持つ点で有利な立場にある状態です。本来非対称性は是正されるべきですが、この構造がなければ、ゲーセンが存続できないという厄介な現実もあるわけです。
結論:確率機の倫理は視点次第、あなたはどう考える?
- 経済的には:透明化は市場を崩壊させる。グレーゾーンが必要。
- カント的には:動機が不純で、人を手段化している。不道徳。
- 功利主義的には:最大多数の最大幸福を実現している。道徳的。
- トロッコ問題と同じ:多数の低次の喜び vs 少数の高次の喜び。測定不能。
- 答えは出ない:義務論と帰結主義の対立は、哲学の永遠のテーマ。
この記事の立場としては答えを断定しません。両方の視点を提示することで、読者自身に考えてもらうことを目的としています。
次にゲーセンで「ふざけんな!」と思ったとき、少し立ち止まってみてください。
- カント的には不道徳かもしれない
- でも功利主義的には道徳的かもしれない
- どちらを取るかは、あなた次第
そして、この「答えのなさ」こそが、倫理学・哲学の面白さ。正しさは一つではないと思います。どのフレームで見るかによっても見え方が変わります。そういった多角視点で世界を見ると、日常がより一層深く見えてきます。
補足:哲学の正確性について
この記事では哲学の議論を大幅に簡略化しています。
- カントの定言命法:より複雑な議論がある
- 功利主義:ベンサムとミルだけでなく、現代の様々なバージョンもある
- トロッコ問題:派生問題が多数ある
より厳密な議論に興味がある方は、マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』などをお勧めします。
ここでは「ゲーセンという日常から哲学を考える」という試みとして、ご理解いただければ幸いです。




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