導入:割れ窓理論が示す「小さな無秩序」の連鎖
もう今日は元気がない。洗濯物たたみは明日でいいや——そう言ってソファーや床に放っておくこと、ありませんか?
果たして翌日に畳むのか?翌日も同じことを言う。その次の日も。
気づいたら、洗濯物の山の出来上がり。山の中から今日着る服を探す日常です。
これは、恥ずかしながら私の家でよく起こること。
最初の1枚を放置した瞬間から、何かが変わっていたのでしょう。「片づけなくてもいい」という空気が、部屋全体に広がっていく感覚。子どもも真似をするわけです。
この現象を理解する鍵は、米国ニュージャージー州の「警官を徒歩で巡回させる」という取り組みから始まっています。割れ窓の原点を見に行きましょう。
この記事でわかること
- 1982年の理論提唱と2008年の実証研究
- 6つのフィールド実験が明らかにした「無秩序の連鎖」のメカニズム
- 割れ窓理論の限界
- 日常生活での応用——今日から実践できる3つの習慣
他の解説記事は「ニューヨークの地下鉄で犯罪が減った」と書きます。それは応用例に過ぎません。ここでは理論提唱の原点まで遡り、核心を掴みに行きます。
割れ窓理論(Broken Windows Theory)とは【意味と背景】
割れ窓理論は、1982年にウィルソンとケリングが提唱した社会理論です。小さな無秩序を放置すると、それが「秩序が守られていない」というシグナルとなり、より深刻な無秩序や犯罪を誘発するという考え方です。
1990年代のニューヨーク市は地下鉄の落書き消去など「小さな犯罪」への対応を徹底し、重大犯罪も減少しました。ただし、これが割れ窓理論によるものか、他の要因によるものかは議論が続いています。2008年にオランダで行われたフィールド実験によって、理論の妥当性がより科学的に検証されることになりました。
本記事では1982年の提唱記事と、2008年のフィールド実験を読み解いていきます。
原典① Wilson & Kelling(1982)|徒歩パトロールが示した秩序維持
1970年代半ば、ニュージャージー州が「Safe and Clean Neighborhoods Program」という治安対策を始めました。28都市で警官をパトカーから降ろし、徒歩パトロールに配置する内容です。
知事や州当局は「犯罪が減るはずだ」と期待していました。しかし現場の警察署長たちは懐疑的でした。理由は以下の通りです。
- 徒歩では機動力が落ちる
- 市民からの通報に即応できない
- 本部のコントロールが効かない
警官たち自身も嫌がりました。
- 寒い雨の夜も外を歩かなければならない
- 「good pinch(手柄・良い逮捕のニュアンス)」のチャンスが減る
- 部署によっては懲罰人事として使われていた
住民の安心感と記述的規範の作用
1980年、ワシントンDCのPolice Foundationが徒歩巡回の評価レポートを発表しました。
犯罪率:変化なし
「ほら見ろ、意味なかっただろう」──そう言いたくなる結果でした。でも、別の発見があったのです。
- 徒歩パトロール地域の住民は「安心感が増した」と感じ
- 犯罪が減ったと信じていた(実際は減っていないのに)
- 家の鍵をかけるなど自衛行動が減った
- 警察への評価が上がった
- 歩いている警官たち自身のモラルも高かった
住民はだまされた?いいえ。住民は徒歩巡回をしていた警官の活動をしっかりと見ていました。その具体的な活動を見ましょう。
ニューアークの路地で見えた「秩序維持」のリアル
研究者の一人、Kellingは実際にニューアーク市の徒歩パトロール警官に密着しています。
ある路地の風景:
- 繁華街の裏通り
- 多くの廃ビル、怪しげな店(ナイフや剃刀を店頭に並べている)
- 大きなデパートが1軒
- 駅とバス停があり、人通りは多い
この路地を担当する警官──仮に「ケリー」とします──は何をしていたのか?
ケリーのルール(住民と暗黙の合意):
- 酔っ払いは階段に座ってもいい。でも寝転んではダメ
- 路地で酒を飲むならOK。でも大通りの交差点ではダメ
- 酒瓶は紙袋に入れること
- バス停で物乞いや話しかけは厳禁
- 商店主と客がもめたら、商店主の言い分を優先(特に客がよそ者なら)
- よそ者がうろついていたら、職業と用件を聞く。怪しければ立ち去らせる
- バス停を邪魔する者は、浮浪罪で逮捕
- 騒ぐ若者には静かにさせる
これは「法の執行」?いや、ケリーの行動は、その路地の「秩序」を維持することだったのです。地域の皆が了承している、「暗黙のルール」といった表現がいいかもしれません。そしてこのルールは、住民たちも理解し、支持していました。
犯罪抑止ではなく「秩序維持」への注目
Wilson & Kellingはここで重要な区別しました。
犯罪抑止(crime prevention) ≠ 秩序維持(order maintenance)
多くの市民が恐れているのは、凶悪犯罪だけではないのです。
物乞い、酔っ払い、騒ぐ若者、たむろする集団、娼婦、うろつく不審者──こうした「無秩序な人々」の存在そのものが不安の源であり、この「無秩序への恐怖」が地域を崩壊させる。
人々は外出を控え、視線を合わせず、足早に立ち去るようになり、コミュニティの結びつきが弱まる。すると、犯罪者がつけ込んでくる。
「無秩序が無秩序を呼ぶ」Zimbardoの放置車実験
「無秩序が無秩序を呼ぶ」警官も社会心理学者も、この点では意見が一致しており、WilsonとKellingは、スタンフォード大学の心理学者Philip Zimbardoが1969年に行った実験を引用しています。
方法:ナンバープレートを外し、ボンネットを開けた自動車を、2つの街に放置し、その後の変化を観察する。2つの都市で行った。
ブロンクス(ニューヨーク):
- 放置後10分:一家総出(父・母・幼い息子)が現れ、ラジエーターとバッテリーを持ち去る
- 24時間後:価値あるものはすべて略奪される
- その後:窓ガラスが割られ、シートが引き裂かれ、パーツがもぎ取られる
- 子どもたちが遊び場として使い始める
- 驚きの事実:これらの行動の多くは「よそ行きの服を着た、身なりの良い白人」が行った
パロアルト(カリフォルニア):
- 1週間以上:無傷のまま
- その後、Zimbardo自らハンマーで車の一部を破壊
- → すると、途端に通行人が破壊に加わり始める
- 数時間で車はひっくり返され、破壊された
- ここでも破壊者の多くは「まともな白人」だった
「割れた窓」という比喩が示すメカニズム
長くなりましたが、やっと「割れ窓」が登場します。Wilson & Kellingは、有名な一節を書きました。
Social psychologists and police officers tend to agree that if a window in a building is broken and is left unrepaired, all the rest of the windows will soon be broken. This is as true in nice neighborhoods as in run-down ones. Window-breaking does not necessarily occur on a large scale because some areas are inhabited by determined window-breakers whereas others are populated by window-lovers; rather, one unrepaired broken window is a signal that no one cares, and so breaking more windows costs nothing. (It has always been fun.)
「社会心理学者も警官も、同じことを理解している。 建物の窓が1枚割れて、そのまま放置されると、やがてすべての窓が割られる。 これは高級住宅地でも貧困地域でも変わらない。 窓が割れるのは、その地域に『窓を割る人』が多いからではない。 むしろ、1枚の割れた窓が『誰も気にしていない』というシグナルになるからだ。 だから、もっと窓を割ることにコストがかからない。(それに、窓を割るのは昔から楽しい遊びだ。)」
この「割れた窓(Broken Windows)」という比喩が、後にこの理論全体の名前になるわけです。
ケリーのような警官がやっていたのは、この連鎖の最初の段階を防ぐことだったのです。割れた窓を直すことはできない。でも、「誰かが気にしている」という空気を作ることはできる。
犯罪率は変わらなかったかもしれない。でも、地域が崩壊する兆しを食い止めていたのです。
原典② Keizer(2008)実証|割れ窓理論は本当に起きるか
提唱はされたが実証はされていない
Wilson & Kellingの主張は大きな影響を与えました。
1990年代、ニューヨーク市は地下鉄の落書き消しや無賃乗車の取り締まりを徹底し、犯罪率が劇的に下がった。「割れ窓理論の成功」と報じられたのです。多くの割れ窓理論の記事はこの成功例を記載しています。でも、批判もあった。
「本当に割れ窓理論のおかげなのか?」
「同時期に経済が良くなった、人口構成が変わった、警察組織が改革された──他の要因では?」
「相関はあっても、因果関係は証明されていない」
Wilson & Kellingの論文は説得力があるが、厳密な実証実験ではなかったのですね。
Science掲載のフィールド実験で何を確かめたのか
2008年12月、Science誌に一本の論文が掲載されました。
著者: Kees Keizer, Siegwart Lindenberg, Linda Steg(オランダ・フローニンゲン大学) タイトル: The Spreading of Disorder
Scienceとは?いわゆるトップジャーナル。心理学・社会学分野でここに載ることは、トップレベルの信頼性を意味します。
この論文は、オランダ・フローニンゲン市で行われた6つのフィールド実験の報告でした。
フィールド実験(Field Experiment)とは、現実の環境で行われる実験のことです。実験室ではなく、実際の街中や公共の場で、人々の自然な行動を観察します。
Keizerらの研究では、6つのフィールド実験を通じて、実際の人々が無秩序のシグナル(落書き、違法駐輪など)にどう反応するかを観察しました。これにより、割れ窓理論が現実世界でも成り立つかを検証したのです。
この実験の狙いは1つ
「ある規範違反が、別の種類の規範違反を誘発するか?」
落書きを見た人が、ポイ捨てをするか?ゴミが散乱した状況で、盗みを働くか?つまり無秩序は、種類を超えて伝染するのか?を確かめることでした。
注意:この実験の限界
ただし、内容に進む前に重要なヘッジを入れておきます。この実験は
- 2008年のオランダで行われた
- フローニンゲン市という特定の文化・社会背景
つまり
- 日本で同じ結果が出るとは限らない
- アメリカで同じ結果が出るとは限らない
- 2025年の現代で同じ結果が出るとは限らない
ただし、オランダは先進国であり、法治国家であり、教育水準も高い。そういう意味では、日本や他の先進国にとって参考になる環境だとは思います。
Keizerらの実験は「代表的な一例」として、信頼性が高いから紹介する──そういう位置づけで読んでみて下さい。では、6つの実験を見ていきましょう。
実験1:落書きがあるとポイ捨てはどれだけ増える?
設定:
自転車置き場において、自転車のハンドルに、白いチラシ(スポーツ用品店の広告)を輪ゴムでかける。路地にはゴミ箱なし。チラシを捨てるか、持ち帰るしかない。 自転車を取りに来た人がチラシのポイ捨てをカウント(他の自転車に掛けるはポイ捨てとカウント。)
条件:
- 秩序条件:壁はきれい+「落書き禁止」の看板
- 無秩序条件:壁に落書き+「落書き禁止」の看板
対象者:各条件77人(合計154人)
結果:
| 条件 | ポイ捨て率 |
|---|---|
| 秩序(壁きれい) | 33% |
| 無秩序(落書きあり) | 69% |
統計: χ²(1, 154) = 20.367, p < 0.001
落書きにより、ポイ捨ての頻度が有意に増加した。
実験2:違法駐輪と「通り抜け禁止」違反の関係
設定:
駐車場のメイン入口が臨時に封鎖され、「通り抜け禁止」の看板。封鎖しているフェンスに50cmの隙間がある。代替の入口は200m先と表示あり。フェンスに自転車を鍵で固定することを禁止する看板あり。
駐車場に車を取りに来る人が、隙間から駐車場に入るかをカウント。
条件:
- 秩序条件:フェンスの前に4台の自転車あり(フェンスに固定されていない)
- 無秩序条件:4台の自転車がフェンスに括りつけられている
対象者:
秩序44人、無秩序49人(合計93人)
結果:
| 条件 | 通り抜け率 |
|---|---|
| 秩序(適切な駐輪) | 27% |
| 無秩序(違法駐輪あり) | 82% |
統計: χ²(1, 93) = 27.791, p < 0.001
フェンスに括られた自転車により、駐車場への入り方が有意に守られなくなった。
実験3:放置カートとポイ捨ての関係
設定: 立体駐車場にて、車のワイパーに白いチラシ(実験1と同じ)を挟む。駐車場入口には「カートはご返却下さい」という目立つステッカー。
車を取りに来た人がチラシをポイ捨てする人をカウント。
2つの条件:
- 秩序条件:駐車場内にカートなし
- 無秩序条件:4台の買い物カートが無造作に放置
対象者:各条件60人(合計120人)
結果:
| 条件 | ポイ捨て率 |
|---|---|
| 秩序(カートなし) | 30% |
| 無秩序(放置カートあり) | 58% |
統計: χ²(1, 120) = 9.766, p = 0.002
カートが散らかるとポイ捨て増える
実験4:花火の音とポイ捨ての関係
設定:
駅近くの自転車置き場にて、自転車のハンドルにチラシ(実験1と同じ)。自転車を取りに来た人のチラシのポイ捨てをカウント。大晦日前2週間に実施。
条件:
- 秩序条件:静か
- 無秩序条件:爆竹の音が聞こえる ※オランダでは大晦日前数週間打ち上げ花火使用は違法。60ユーロの罰金あり。よく知られた法律。
対象者:
秩序50人、無秩序46人(合計96人)
結果:
| 条件 | ポイ捨て率 |
|---|---|
| 秩序(静か) | 52% |
| 無秩序(花火の音) | 80% |
統計: χ²(1, 96) = 8.587, p = 0.003
花火の音だけで、ポイ捨てが増えた。音だけでも影響を及ぼすことを示した。
実験5 & 6:落書きとゴミがもたらす窃盗実験(最も衝撃的な結果)
設定:
郵便ポストに、白い封筒(中に5ユーロ紙幣が見える状態)を、ポストから半分はみ出させる。ポストの前を通った人の、封筒を盗む・開けるをカウント
実験5:落書きあり/なし
- 秩序条件:ポスト落書きなし、周囲もきれい
- 無秩序条件:ポスト全体に落書き、周囲きれい
実験6:ゴミあり/なし
- 秩序条件:ポスト落書きなし、周囲もきれい
- 無秩序条件:周囲にゴミが散乱
対象者:
- 落書きなしゴミなし:71人
- 落書きありゴミなし:60人
- 落書きなしゴミあり:72人
結果:
実験5(落書き有無)
| 条件 | 窃盗率 |
|---|---|
| 秩序(きれい) | 13% |
| 無秩序(落書き) | 27% |
統計: χ²(1, 131) = 4.122, p = 0.035
実験6(ゴミ有無)
| 条件 | 窃盗率 |
|---|---|
| 秩序(きれい) | 13% |
| 無秩序(ゴミ) | 25% |
統計: χ²(1, 143) = 3.545, p = 0.047
ポストの落書き、周囲のゴミ、いずれも窃盗を増やす
Keizerらは、これらの実験から割れ窓理論の核心的メカニズムを提唱しています。
クロスノーム効果:異なる規範違反が伝染する仕組み
これが割れ窓理論の核心であり、この論文の最大の貢献です。
- 落書きを見た人が、落書きをするのではなく、ポイ捨てをする。
- 違法駐輪を見た人が、違法駐輪するのではなく、不法侵入をする。
- ゴミを見た人が、ゴミを捨てるのではなく、お金を盗む。
つまり、一つの規範違反が、全く別の種類の規範違反を誘発する。Keizerらはこれを「クロスノーム抑制効果(cross-norm inhibition effect)」と名づけています。
ある規範が破られているのを見ると、「適切に振る舞う」という全般的な動機が弱まる。すると、他の規範も守らなくていい気がしてくる。
論文では、この背景にある心理メカニズムとして「goal-framing theory」も言及されています。人は「適切さの目標」「快楽の目標」「利得の目標」を持っており、無秩序を見ると「適切さの目標」が弱まり、他の目標が前に出る、という説明です。
Cialdini効果:「みんなやってる」がルールを上書きする
心理学者Robert Cialdiniの研究に基づく効果です。著者らは発見者のCialdiniの名前を取り、論文内でこう呼んでいます。(影響力の武器を書いたあの「チャルディーニ」です)
人は「多くの人がやっている行動」を真似る傾向があり、「みんながやってるなら、正しいんだろう」という推論する効果です。少々学術的な言葉を出しますが、
記述的規範(descriptive norm):実際に何が行われているか
命令的規範(injunctive norm):何が望ましいとされているか
この2つの規範のパワーバランスが崩れるのです。
頭では「ダメ」とわかっていても、目の前の“みんなやってる”のほうが強い力を持ってしまう。
落書きだらけの壁(記述的規範)は、「落書き禁止」の看板(命令的規範)を弱める。人は記述的規範に強く影響されるというわけです。
割れ窓理論の問題点と限界|ニューヨークの成功は本当にこの理論のおかげか?
割れ窓理論は影響力のある理論であることはここまでの提唱と実験で理解できますが、万能ではありません。ここからは理論の限界と批判を整理してきます。
ニューヨークでの「成功事例」が割れ窓理論だけでは説明できない理由
1990年代、ニューヨーク市は犯罪率が劇的に下がりました。ルドルフ・ジュリアーニ市長と警察本部長ウィリアム・ブラットンは、「割れ窓理論に基づく政策」を掲げました。以下のような対応を徹底したのです。
- 地下鉄の落書き消し
- 無賃乗車の徹底取り締まり
- 路上の物乞いの取り締まり強化
いわゆる軽微な犯罪の取り締まりです。ゼロ・トレランスと呼ばれます。その結果。犯罪率は確かに下がった。「割れ窓理論の成功例」として世界中に紹介されたのです。そしてこれが多くの割れ窓理論の記事が書く内容です。でも、本当に割れ窓理論のおかげなのか?
相関と因果の違い|短期実験と長期政策のギャップ
1990年代のニューヨークにおける犯罪減少は、割れ窓理論単独では説明しきれないと言われています。特にHarcourtとLudwigは2006年の論文で、「無秩序→犯罪」という単純な因果関係や、「軽犯罪の大量摘発=最適な犯罪抑止」という命題は支持されないと結論づけています。
考えられる他の要因:
- 単純な平均回帰
- 全米での犯罪率減少
- 警察組織の改革:CompStatシステム(犯罪統計の可視化)の導入など、割れ窓理論以外の警察投入や運用改善
- 警察官の増員:単純に警官が増えた
- 薬物市場の変化:クラック・コカインの流行が収束
これらの要因が複雑に絡みあい、割れ窓理論だけで説明するのは無理があるのです。
限界:地域差・文化差と長期効果の未確定性
Keizerの実験は、相関関係を示したわけです。 「落書きがある → ポイ捨てが増える」 「ゴミがある → 窃盗が増える」
しかしこれは
- 短期的な影響(実験は数時間〜数日)
- 限定的な状況(特定の場所・文化)
長期的な政策効果を示したわけではないのです。「地域の落書きを消し続けたら、5年後に犯罪率が下がるか?」これについては別の研究が必要となります。
ゼロトレランス政策と人種プロファイリングという副作用
そして割れ窓理論に基づく「ゼロトレランス政策」には、深刻な副作用もありました。代表的なものは差別的な取り締まりです。
ニューヨークでは、軽犯罪の取り締まりがマイノリティに集中しました。これは「怪しい人物」として職務質問される対象が、黒人・ヒスパニック系に偏ったということ。
果たしてこれは「秩序維持」なのか?それとも「人種プロファイリング」なのでしょうか?
割れ窓理論は「万能の答え」ではなく「考えるフレーム」
ここまでを読むと、割れ窓理論の正しい理解が浮かび上がってきます。
- ❌ 犯罪のすべてを説明する万能理論ではない
- ❌ そのまま政策に適用できる単純なルールではない
- ⭕ 秩序維持を考えるための「フレーム」として有用
同様に、日本への応用を考えるときも同じ注意が必要で
- オランダやアメリカの実験結果が、そのまま日本に当てはまるとは限らない
- 「厳罰化すれば秩序が保てる」という単純な話ではない
- 地域の文化・コミュニティの状況に応じた工夫が必要
理論は「考えるための道具」であって、「答え」ではないのですね。
割れ窓理論を日常生活に応用する|洗濯物・食器・障子の「最初の1枚」
公的空間での実験が私的空間に拡張できる?
ここまで、1982年の警官の観察と、2008年のオランダ実験そしてその限界を見てきました。では、これを日常にどう応用できるのか?
ただし、ここで注意が必要。Keizerの実験は公共空間での規範違反を扱っている。落書き、ポイ捨て、窃盗──いずれも「社会的な規範」の話です。
一方、これからの話は私的空間での習慣の話。同じメカニズムが働いているとは限らない。でも、構造的には似ている部分がある。「フレームとして参考になる」という前提で、考えていきましょう。
洗濯物の山と割れ窓理論の構造的な似ているところ
「今日は疲れたし、このシャツ1枚だけならいいか」
冒頭の導入のシーンです。
Keizerの実験で言えば、放置された洗濯物は「落書きだらけの壁」に相当します。視覚的なシグナルとして、「ここは秩序が守られていない空間だ」というメッセージを発します。すると、「適切に振る舞う」という目標が弱まり、他の片づけ行動も後回しになる。
これがクロスノーム効果の私的空間版──と解釈できるかもしれません。「小さな乱れが大きな乱れを呼ぶ」という構造は共通しているように感じます。
家族への伝染
子どもが服の山を見て、無意識に学習するわけです。「片づけなくても大丈夫なんだ」。
これも、割れ窓理論的に解釈できそうです。片付けなさい(命令的規範)が失われ実際に何が行われているか(記述的規範)が家族に伝わる。
食器編:シンクの連鎖
夕食後、皿を1枚だけ洗わずに置く。それがコップ、茶碗、鍋と積み重なる。最初の1枚が”連鎖のスイッチ”に見える。
障子編:穴1つ
子どもが障子に小さな穴を開ける。「1つくらいなら」と放置すると、次々に穴が広がる。
これはZimbardoの放置車実験と似ている。最初の一つを開けたことが呼び水になる。
過度な一般化にならないための注意点
正直なところ、洗濯物や食器を割れ窓理論で説明するのは、過大解釈かもしれないというのは先に説明した通りです。しかし、「小さな乱れを放置すると、大きな乱れになる」という構造は、経験的に共感できる部分があるわけです。
割れ窓理論を「考えるためのフレーム」として使うなら、日常にも応用のヒントがある──そういう捉え方がいいのではないでしょうか?
今日からできる割れ窓理論の使い方|家庭で試せる3つの習慣
割れ窓理論を日常に応用するなら、難しいことを考える必要はないでしょう。「最初の一枚を放置しない」──これだけです。
1. 洗濯物は「手に取ったらその場で畳む」
洗濯カゴから取り出したら、そのまま畳んでタンスにしまう。「後で」と思った瞬間が、最初の割れ窓になる可能性があるのですね。もちろん、本当に疲れているときは無理しなくていい。その時は「後で」を必ず実行するクセを付けましょう。
2. 朝3分・夜3分「見える場所」だけ片付ける
リビングやダイニングテーブル──家族の視界に入る場所を、さっと片付ける。
完璧を目指す必要はない。「無秩序のシグナル」を減らすだけで、空気が変わる。記述的規範を意識する。
3. 「後で」と思ったら「今10秒」で片付ける
未来の自分に丸投げしない。10秒で終わることは、今やりましょう。私の経験上「後で」の方がエネルギーを消耗する気がします。
まとめ:理論は「考えるフレーム」—使いどころを見極める
- 割れ窓理論は1982年の観察から生まれた──警官の徒歩巡回が秩序維持をもたらすという発見
- 2008年に実証研究で確認された──一つの無秩序が別の無秩序を呼ぶ「クロスノーム効果」
- 万能理論ではない──犯罪減少は複数要因の結果であり、厳罰化には副作用もある
- 考えるためのフレームとして有用──「小さな乱れが大きな乱れを呼ぶ」という構造を理解する道具
- 日常への応用──洗濯物1枚、食器1枚から始まる連鎖を防ぐ「最初の一枚を放置しない」習慣
1982年、ニュージャージー州から始まった。酔っ払いを座らせる。バス停での物乞いを止める。騒ぐ若者を静かにさせる。これは「犯罪抑止」ではなく、「秩序維持」をもたらしました。Wilson & Kellingは、この観察から「割れた窓」という比喩を生み出し、その効果はオランダで実証され「クロスノーム効果」が報告された。
一方で万能理論ではありません。ニューヨークの犯罪現象は複数の要因が重なった結果であり、ゼロ・トレランスは差別的な取り締まりという副作用も生んだのです。
小さな放置が連鎖を生む、という構造は経験的に共感でき、日常にも応用しやすい効果でしょう。ぜひこの考え方取り入れていきたいものです。
参考文献
- Wilson, J. Q., & Kelling, G. L. (1982). Broken windows: The police and neighborhood safety. The Atlantic Monthly, 249(3), 29-38.
- Keizer, K., Lindenberg, S., & Steg, L. (2008). The spreading of disorder. Science, 322(5908), 1681-1685.
- Harcourt, B. E., & Ludwig, J. (2006). Broken Windows: New Evidence from New York City and a Five-City Social Experiment. The University of Chicago Law Review, 73(1), 271–320.



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