プロスペクト理論シリーズ目次
- プロスペクト理論を数式と原典からガチ解説
- 確率重み関数で読み解くプロスペクト理論
- 損失回避の損は得の2倍の出どころ
- 損失回避の境界線 ← 今ここ
コンビニでコーヒーを買う。サブスクの月額が引き落とされる。子どもの習い事に月謝を払う。お金が減っている。つまり「損失」のはずです。
前回の記事で見たように、損失回避の原典では「損失は利得の約2倍重く感じる」と言われています。だとしたら、支払いのたびに心が死ぬはずでは? 毎朝のコンビニコーヒーで、毎月のサブスク引き落としで、私たちは苦しんでいるはずです。
……でも、実際はそうでもない。少なくとも、毎回「損した」とは感じていない。
この違和感、実は合理的です。2005年、カーネマン自身がこの問題に取り組み、「損失回避には境界条件がある」という論文を発表しました。今回はこの論文を読み解きます。読んでいくのは以下の論文です。
Novemsky, N., & Kahneman, D. (2005). The boundaries of loss aversion. Journal of Marketing Research, 42(2), 119-128.
- 損失回避が「いつでも発動する万能バイアス」ではない理由
- 2005年論文が立てた“パズル”:買い手はなぜお金に損失回避を示さないのか
- 境界条件の核心:「意図された交換(as intended)」では損失回避が出にくい
- 同じ1万円でも「予算内」か「予算外」かで痛みが変わる仕組み
【損失回避が出にくい条件】
- お金は「交換のために保有している」ので、その目的どおりに使うときは損失として符号化されにくい
- 予算化された支出(as intended)は損失回避を引き起こしにくい
【損失回避が出やすい条件】
- 予算外・想定外の支出
- 消費財を手放すとき(特に代替がないもの)
- 「守るべき保有物」として参照点が置かれている場合
第1章 前提:損失回避は強い(でも万能ではない)
まず前提を確認しておきましょう。損失回避とは、「同じ金額でも、得るときより失うときのほうが心理的インパクトが大きい」という現象です。1979年のプロスペクト理論で提唱され、1992年には「損失側の傾きは利得側の約2倍(λ=2.25)」という定量化もされました。
詳しくは損失回避の由来を追った前回記事をご覧ください。大事なのは、損失回避は確かに強力だが、万能ではないということ。「いつでも・どこでも・誰にでも発動する」わけではありません。今回は、その「例外」——つまり境界条件の話です。
第2章 2005年論文が立てた”パズル”
マグカップ実験の不思議
Novemsky & Kahneman (2005) は、有名な「マグカップ実験」の結果を出発点にしています。実験の概要はこうです。被験者を3グループに分けます。
| グループ | 状況 | 質問 |
|---|---|---|
| 売り手(sellers) | マグを渡される | いくらなら売る? |
| 買い手(buyers) | マグを持っていない | いくらなら買う? |
| 選択者(choosers) | マグもお金も持っていない | マグをタダでもらう or 現金をタダでもらうならいくら? |
選択者の条件は、売り手(商品を失う)や買い手(お金を失う)と異なり、「損失」を含まない純粋な価値評価を測定するための対照群として設定されています。
結果はこうでした(Novemsky & Kahneman, 2005, p.119):
売り手が高いのはわかります。マグを「損失」として手放すので、損失回避が働く。だから高く要求する。でも、買い手と選択者の価格がほぼ同じなのは、ちょっと変じゃないですか?
いや、買い手はお金を払うわけやろ? お金を失うんやから、損失回避で「安くしか出せん」ってなるはずやん。
そう思うやろ? でも実際は、買い手の価格と選択者の価格がほぼ同じ。つまり買い手は、お金を払うことに損失回避を示していない。
えっ、なんで? 支払い=損失ちゃうの?
そこがパズルなんや。もし支払いに損失回避が働くなら、買い手の価格は選択者の半分くらいになるはず。でも実際はほぼ同じ。これをどう説明するか、というのが2005年論文の出発点や。
第3章 「リスクあり」条件を追加した実験
Novemsky & Kahneman (2005) は、このパズルを検証するために、従来の3条件(売り手・買い手・選択者)に加えて、リスクありの2条件を追加しました。
| 条件 | 状況 | 選択内容 | 略称 |
|---|---|---|---|
| 売り手 | マグを持っている | 確実に売る(マグ→現金) | WTA (Willingness To Accept) |
| 買い手 | マグを持っていない | 確実に買う(現金→マグ) | WTP (Willingness To Pay) |
| 選択者 | 何も持っていない | マグ or 現金をタダでもらう | CE (Choice Equivalent) |
| リスクあり売り手 | マグを持っている | 50%でマグを失う or 50%でマグ+現金 | RWTA (Risky Willingness To Accept) |
| リスクあり買い手 | マグを持っていない | 50%でマグをタダで得る or 50%で現金を失う | RWTP (Risky Willingness To Pay) |
【リスクあり買い手の状況】
50%の確率であなたはマグをタダでもらえます。逆に50%の確率で、あなたは○ドルを支払い、何ももらえません。このギャンブルを受けますか?」
つまり、リスクあり買い手は「お金を賭けている」状況です。通常の買い手は「お金を払えば確実にマグが手に入る」のに対し、リスクあり買い手は「お金を失うかもしれないのに何ももらえない」可能性があります。
【リスクあり売り手の状況】
あなたは今マグを持っています。次のギャンブルを受けますか? 50%の確率で、マグを手放さずに○ドルをもらえます。 50%の確率で、マグを失い、何ももらえません。
ポーカーに例えると、「自分のマグを賭けの対象に入れる」状況です。勝てばマグを保持したまま賞金がもらえる。負ければマグを取られて何も残らない。通常の売り手は「マグを渡せば確実にお金がもらえる」のに対し、リスクあり売り手は「マグを失うかもしれないのに何ももらえない」可能性があります。
結果一覧
論文ではあらかじめ4つの仮説を立てています。H1〜H4の「H」は Hypothesis(仮説)の頭文字です。複数の実験を統合した結果はこうでした(Novemsky & Kahneman, 2005, Table 2):
| 比較 | 予測 | 結果(統合値) | 解釈 |
|---|---|---|---|
| WTA / CE | > 1 | 1.85 | 売り手はマグに損失回避を示す(H1) |
| CE / WTP | = 1 | 1.07 | 買い手はお金に損失回避を示さない(H2) |
| RWTA / WTA | = 1 | 0.91 | リスクを追加しても売り手の価格は変わらない(H3) |
| WTP / RWTP | > 1 | 2.31 | リスクあり買い手はお金に損失回避を示す(H4) |
順番に見ていきましょう。
H1:売り手はマグに損失回避を示す(WTA/CE = 1.85)
マグを持っている売り手は、選択者よりも約1.85倍高い価格をつけた。「持っているモノを手放すと損失回避が出る」という、いわば教科書どおりの結果です。
WTA/CEが1.85……売り手がマグを手放すのを嫌がってるってことやな。
そう。選択者が「3ドルの価値」と言うマグを、売り手は「5.5ドルもらわないと渡せん」と言う。「モノを手放すと損失回避が出る」という教科書どおりの結果や。
H2:買い手はお金に損失回避を示さない(CE/WTP = 1.07)
買い手の価格と選択者の価格がほぼ同じ——つまり買い手は、お金を払うことに損失回避を示していない。これが本論文の核心パズルです。
CE/WTPが1.07……ほぼ1やん。選択者と買い手の価格がほぼ同じ?
そう。もし買い手がお金に損失回避を感じてたら、「3ドルも払いたくない、せいぜい1.5ドル」ってなるはずやろ? でも実際はほぼ同じ。つまり買い手は、お金を払うことに損失回避を示してへん。
でもこれ、確定した話なん?
実は論争中や。別の研究者が「買い手もお金に損失回避を示す」という逆の結果を出してる。カーネマン達も被験者の財布事情の違いかもしれん、と推測してるけど決着はついてへん。
H3:リスクを追加しても売り手の価格は変わらない(RWTA/WTA = 0.91)
ギャンブル形式にしても売り手の要求額はほぼ変わらなかった。50-50のバランスの取れたリスクでは、損失回避を超えた「リスク回避」は存在しないという示唆です。
RWTA/WTAが0.91……これもほぼ1。でもリスクあり売り手はギャンブルしてるわけやろ? ギャンブルを嫌う分、もっと高い金額を要求しそうやけど。
普通はそう思うやろ? でも実際はほぼ同じ。これが意味するのは、バランスの取れたギャンブル(50-50)では、損失回避を超えた「リスク回避」は存在しないってことやな。
H4:リスクあり買い手はお金に損失回避を示す(WTP/RWTP = 2.31)
通常の買い手は平気でも、「お金だけ取られるかもしれない」ギャンブル形式にした途端、出せる金額が約半分に。同じお金でも、使い方次第で損失回避が出たり出なかったりすることを示しています。
WTP/RWTPが2.31……これは大きいな。リスクあり買い手は通常の買い手の半分以下しか出さへんの?
そう。通常の買い物は「お金と商品の交換」やから痛くない。でもリスクあり買い手は「金だけ取られるかも」って状況。そうなると途端にお金に損失回避が出る。同じお金でも、使い方によって損失回避が出たり出なかったりするんや。
でもこの2.31、確実な結論と思ってええの?
正直、この比率は実験によってバラツキが大きかった。1.13から3.25まで振れとる。論文でも「さらなる実証研究が必要」と書いてあるから、「強い示唆」くらいに受け取っとき。
では、なぜこの違いが生じるのか?論文の答えは「意図された交換(as intended)」という概念です。
第4章 境界条件の核心:「意図された交換」では損失回避が出にくい
靴屋と消費者——同じ靴でも痛みが違う
ここで視点をひっくり返します。
靴屋は、靴を棚から出して客に渡しても「靴を失って損した」とは感じません。それは靴が「手元に置いて愛でる資産」ではなく、「売るための在庫」だからです。出荷は損失ではなく、目的どおりの交換=仕事の完了。
一方、その靴を「履くため」に買った消費者はどうでしょうか。同じ靴を手放せと言われたら、痛みを感じるはずです。論文ではこう述べられています。
“the merchant can sell the shoes without loss aversion, whereas the consumer cannot”
(靴屋は損失回避なしに靴を売ることができるが、消費者はそうではない。)
——Novemsky & Kahneman (2005), p.124
物理的には同じ「靴」。でも、所有者が「それをどうするつもりか」によって、手放すときの心理的痛みがまったく違う。
意図された交換(as intended)では損失回避が出ない
論文では、この考えを「命題P2」として定式化しています。
“Goods that are exchanged as intended are not evaluated as losses.”
(意図されたとおりに交換される財は、損失として評価されない。)
——Novemsky & Kahneman (2005), p.124
お金はまさにこの原則が当てはまる代表例です。ふだん私たちはお金を「守る資産」ではなく「交換のための道具」として持っている。だから目的どおりに使うとき——つまり「意図された支払い(as intended)」では、損失回避が出にくい。
“money is normally held for the purpose of exchange, and there is no loss when that purpose is fulfilled.”
(お金は通常、交換の目的で保有されており、その目的が果たされるときには損失は生じない。)——Novemsky & Kahneman (2005), p.121
ポイントは「as intended(意図されたとおりに)」という部分です。同じお金でも、使い方によって「損失」として感じるかどうかが変わる。予算化されていた支出なら損失回避は出にくい。でも予算外の出費だと、損失回避が顔を出す可能性がある。
なるほど。つまり「使う予定だったお金」と「使う予定じゃなかったお金」で、痛みが違うってことか。
そういうこっちゃ。論文では「予算(budget)」という概念で説明しとる。予算内の支出は“意図されたとおり”やから損失回避が出にくい。でも予算外——たとえば想定外の出費——には損失回避が働きやすい、と。
じゃあ交通違反の反則金とかは? あれめちゃくちゃ痛いやん。
いい例やな。反則金は「予定外」どころか「意図の真逆」や。誰も反則金を払うために財布にお金入れてへんやろ。しかも払っても何も手に入らん。純粋な損失や。だから損失回避がガッツリ出る。
……でもさ、金持ちの中には反則金を「経費」みたいに予算化してる奴おるらしいやん。あれ、もう罰じゃないよな。
せやな。あいつらの中では反則金が「想定外の損失」じゃなくて「意図された支払い」に変換されとる。罰のはずが、ただの料金になる。このあたりはメンタルアカウンティングって別の概念が関わってくるな。
予算という枠組み
論文では、消費者の支出意図は「予算」として記述できると述べています。
多くの消費者は、予算の中に「雑費(miscellaneous expenses)」というカテゴリを持っている。このカテゴリは、特に予定されていない小さな買い物をカバーする。そしてこのカテゴリ内で購入された商品に使われたお金は、損失として評価されないと。
一方、予算にゆとりがない消費者は、予定外の購入に損失回避を示す可能性がある。この場合、何かを買うことは「別の何か(貯蓄や他の消費)をあきらめる」ことを意味し、それが損失として符号化されるからです。
落とし穴:「雑費枠」は万能の免罪符ではない
ここで注意が必要です。「予算化すれば痛くない」というロジックは便利ですが、何でも「雑費」に入れれば痛くなくなるという話ではありません。理論的には、「痛くなかった → きっと予算内だったんだ」「痛かった → 予算外だったんだ」と、結果から逆算して意図を定義できてしまうという弱点があります。原典でも、この「意図」の事前定義が曖昧な点は未解決のまま残されています。
実践的には、「雑費枠」を拡大解釈して散財を正当化するのは、まさにメンタルアカウンティングの悪用です。「今日のご褒美」「自分へのご褒美」が無限に拡張されていく人、いませんか?
いろんな実験や概念教えてもらったけど、最初の実験のところに戻るで?クレーンゲームとかリスク買いの典型例やんな?取れたら景品、取れなかったら100円だけ消える。
そう。支払いが「交換の完了」じゃなくて「ハズレ=支払いだけ」になると、金は一気に“損失候補”に戻る。
でもさ、最初に「今日は1000円まで」って決めてやると、意外とダメージ減るんよな。
それが予算化や。「今日のプレイ代」として雑費枠に入れておくと、想定外の損失じゃなくて「使う予定の金」になる。刺さりが減る。
(ゲーセンでの予算化と体験価値の話は、こちらの記事でも詳しく書いています)
この「心の中でお金にラベルを貼る」現象は、行動経済学では「メンタルアカウンティング(心の家計簿)」と呼ばれています。「食費」「娯楽費」「貯蓄」といった心の中の“口座”をどう設定しているかで、同じ支出でも痛みが変わる。損失回避の境界条件は、このメンタルアカウンティングと深く絡み合っています。
第5章 3つの命題──損失回避が「出る/出ない」の見取り図
ここまで実験データを追いかけてきました。ここからは、論文がデータと先行研究から導いた3つの命題(Propositions)を見ていきます。この3つが、損失回避の「出る/出ない」を切り分ける見取り図になります。
命題P1:消費財を手放すと損失回避が出る——ただし「便益の代替」があれば別
P1: The value attached to a consumption good that is given up in an exchange reflects loss aversion(交換で手放される消費財に付随する価値は、損失回避を反映する。)——Novemsky & Kahneman (2005), p.123
これは一見、当たり前に聞こえます。「持っているモノを手放すと損失回避が出る」——第3章のH1(WTA/CE = 1.85)で確認した話です。ただし、論文はここに重要な例外をつけています。
We suggest that our first proposition fails when all the benefits of the good that is given up are present in the acquired good.(手放す財の便益がすべて獲得する財に含まれている場合、P1は成立しない。
ポイントは「属性(attributes)」ではなく「便益(benefits)」で判断されるという点です。
属性と便益って何が違うん?
スマホの機種変を想像してみ。いま持ってるiPhone 14を下取りに出してiPhone 17を買うとする。カメラの画素数もチップも違う。属性としては別物や。でも「LINEする」「写真撮る」「おサイフケータイ」という便益は全部引き継がれる。便益レベルで代替されてれば、古いスマホを手放すことに損失回避は出にくい、と論文は言うとる。
命題P2:「意図されたとおり」の交換は損失にならない
P2: Goods that are exchanged as intended are not evaluated as losses.(意図されたとおりに交換される財は、損失として評価されない。)——Novemsky & Kahneman (2005), p.124
これが本論文の核心です。キーワードは「as intended(意図されたとおりに)」。同じモノでも、誰がどういうつもりで持っているかによって、手放すときの痛みが変わる。
お金はこの原則の代表例です。 ふだん私たちはお金を「交換のためのツール」として持っている。目的どおりに使うとき——つまり予算化された支出では、損失回避が出にくい。これが第3章で見たH2(CE/WTP ≈ 1)の説明です。
命題P3:バランスリスクでは、損失回避を超えたリスク回避は出ない
P3: There is no risk aversion beyond loss aversion in balanced risks.(バランスの取れたリスクにおいて、損失回避を超えたリスク回避は存在しない。)——Novemsky & Kahneman (2005), p.125
第3章のH3(RWTA/WTA = 0.91 ≈ 1)がこの命題の実験的根拠です。50-50のギャンブルで商品を賭ける状況でも、確実に売る状況と価格がほぼ同じだった。つまり、「ギャンブルだから嫌だ」という追加の忌避は観察されなかった。
ちょっと待って。「リスクを嫌う」のと「損失を嫌う」のは別物なん?
ええ質問やな。従来の経済学では「リスク回避」がひとかたまりの概念やった。でもこの論文は、バランスの取れたギャンブルで観察されるリスク回避は、実は損失回避だけで完全に説明できる、と言うとる。損失回避の上に「不確実性そのものへの嫌悪」を乗せる必要がない、と。
論文はP3が成り立つ条件を2つ挙げています。
- 所得効果が小さいこと——賭けに負けたとき、将来の消費が大きく変わるほどの金額ではないこと。家を賭けるような話ではRWTA ≠ WTAになる。
- 分離性(separability)が保たれていること——手放す財の評価と、受け取る金銭の評価が頭の中で分離されていること。「売った金で代わりを買おう」と考えると、損失と補償が心理的にリンクして分離性が崩れ、WTAが下がる可能性がある。
つまりP3は「少額の日常的な財で、売却金の使い道を特に考えていない」という条件のもとで成り立つ命題です。
3つの命題の見取り図
| 命題 | 主張 | 境界(例外が生じる条件) | 対応する実験結果 |
|---|---|---|---|
| P1 | 消費財を手放すと損失回避が出る | 手放す財の便益が得る財に完全に含まれていれば出ない | H1: WTA/CE = 1.85 |
| P2 | 意図されたとおりの交換は損失にならない | 予算外の支出・困窮状態の消費者では出る | H2: CE/WTP = 1.07, H4: WTP/RWTP = 2.31 |
| P3 | バランスリスクでは損失回避を超えたリスク回避は出ない | 高額で所得効果が大きい場合、分離性が崩れた場合は成り立たない | H3: RWTA/WTA = 0.91 |
第6章 日常で見える“境界条件”の例
では、具体的にどんな場面で損失回避が「出る/出ない」が分かれるのでしょうか。3つの例で考えてみます。
例1:サブスクの自動更新
月額1,000円のサブスク。毎月引き落とされるけど、あまり「痛い」とは感じない。これは「予算化されている(as intended)」「ルーチン」の典型です。毎月払うと決めているお金なので、損失として符号化されにくい。でも、「今月はほとんど使わなかったな」と気づいた瞬間、ちょっと痛く感じませんか? 使わなかった=本来の意図が果たされていない、と感じると、損失回避が顔を出し始めるのかもしれません。
また、「無料お試し期間」はこの境界条件を逆手に取ったマーケティング戦略です。お試し期間中にサービスを使い始めると、「使っている状態」が参照点になる。すると、お試し終了後に解約することは「得ない」ではなく「失う」と感じる。損失回避が「続ける」方向に働くわけです。
例2:車の下取り
古い車を下取りに出して新車を買う。愛着のある車を手放すのに、意外と平気だったりする。2005年論文では、「手放す財の便益が、得る財にすべて含まれている場合、損失回避は働きにくい」と説明されています(Novemsky & Kahneman, 2005, p.124)。新車が古い車の便益をすべてカバーしている(むしろ上回っている)と感じれば、手放すことは「損失」として符号化されにくい。
でも「この車には思い出がある」とか言い出すと、急に手放せなくなるやん。
ええとこ突くな。「思い出」は新車ではカバーできない便益や。代替できない便益があると、損失回避が働きやすくなる。結局、「何を失うと感じるか」次第なんや。
例3:予定外の出費(冠婚葬祭、故障、医療費)
同じ3万円でも、「予算化されていた旅行代」と「突然のエアコン修理代」では、痛みが全然違う。後者は「予算外(extrabudgetary)」の出費です。使う予定じゃなかったお金を使うことになるので、損失回避が働きやすい。しかも「仕方なく払う」という感覚があると、余計に「損した」と感じやすいかもしれません。
ただし、あらかじめ「予備費」や「突発対応費」といった枠を予算化していると、話が変わります。突然の修理でも「こういうときのためのお金」として用意してあった枠から支払えば、「意図された交換」に近づく。同じ出費でも、痛みはだいぶ減るはずです。
まとめ:「何に使うつもりか」が痛みを決める
損失回避が出るかどうかは「客観的にいくら減ったか」ではなく、「それを何に使うつもりだったか」で決まる。同じモノ、同じ金額でも、意図しだいで「損失」になったり、ならなかったりする。意図された交換(as intended)がキーワードです。
- 損失回避は強力だが万能ではない。「いつ出るか」には境界条件がある
- 買い手はお金に損失回避を示さない——これが2005年論文の核心パズル
- カギは「意図された交換(as intended)」。使う予定のお金は損失として符号化されにくい
- 同じお金でも「予算内」か「予算外」かで痛みが変わる。これはメンタルアカウンティングと深く絡み合う
- 「意図」の事前定義が曖昧という理論的弱点は未解決のまま残っている
執筆後記
この論文の実験で使われた物品は、全部「安い」。マグ、チョコバー、一番高くてもParker Jotterのペンでせいぜい数十ドル。もっと高額な物品で試してくれよ、と言いたくなりますが、被験者に実物を配るデザインですから、物品コスト×人数×条件がそのまま研究費に乗る。これは財布の境界条件ですね。行動経済学系の実験でよく指摘されるところです。頭の体操でもっと高額な物品だったらどうなるか考えてみます。
たとえば、選択者の評価(CE)が5万円の物品を持っているとします。でも、自分には使い道がない。私なら3万円でも喜んで売って、そのお金でもっと自分に必要なものを買います。
これ、保有効果の常識からするとおかしい。WTA/CE≈ 1.85なら、9万円以上を要求してもおかしくないのに、3万で売れる。保有効果が消えるどころか、逆転するわけです。
論文の枠組みで見ると、三つの条件が同時に効いています。第一に、「自分に不要」=その物品から得ている便益が少ないので、売却金で買えるものの便益に完全に上書きされる。第二に、「不要」と判断した瞬間、その物品の心理的ラベルが「消費財」から「交換財」に切り替わる——靴屋が靴を在庫として見るのと同じ構造です。そして第三に、「これを売ればあれが買える」と損失と利得が頭の中でリンクし、分離性(separability)が崩れる。
「高額×不要品×売却金の使い道が明確」——この三つが揃うと、保有効果は消失し、むしろ「早く売りたい」に反転する。フリマアプリで不用品をどんどん出品できるのは、まさにこの心理構造かもしれません。もっとも、これは2005年の論文では「さらなる検証が必要」とされたままの未解決問題ですが。
参考文献
- Novemsky, N., & Kahneman, D. (2005). The Boundaries of Loss Aversion. Journal of Marketing Research, 42(2), 119-128.



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